生き方を変えてしまう作品があった。
人生における嗜好、思考、指向、志向を定め付けられたターニングポイントにして、特撮オタクになる以外の岐路は完全に消滅したバニシングポイント。
『ウルトラマン』である。
ウルトラマンと私
『シン・ウルトラマン』の話に入る前に、昔話をさせて欲しい。
私の幼少期、TVにウルトラマンの姿は無かった。
ウルトラマンとの出会いは、父親が買ってきてくれた一冊の図鑑。
読む。読む。読む。夢中になって読む。記憶の底にある、最古にして原初の耽溺。ウルトラマン、ウルトラセブン、バルタン星人、レッドキング、ゴモラ、キングジョー、グドン、バキシム……砂漠に降る雨のように、ウルトラ兄弟や怪獣の名前、容姿、特徴が、幼い脳へどんどん染み渡っていく。図鑑には怪獣の強さが点数で表示されており、最強の100点が「宇宙恐竜ゼットン」と「暴君怪獣タイラント」だった事は、今もはっきりと覚えている。
ソフビや食玩も買ってもらい、遊んだ。テレスドンのソフビや、緑一色のネロンガの人形がお気に入りだった。しかし、どちらかといえば、図鑑で知ったウルトラマンの戦いを想像したり、窓から見える景色に怪獣を出現させたりと、空想の世界に心を委ねる方が好きだった。
マッチを売る少女が料理の幻覚で腹を満たすように、頭の中でだけウルトラマンや怪獣を動かして楽しんでいた私にも、とうとう転機が訪れる。
やってきたのだ、我が家へ。ビデオデッキが!
始まる、親とのレンタルビデオ屋通い。一週間で最も待ち遠しい、至福の瞬間。
棚にずらりと陳列されるビデオケース。期待を煽るジャケット絵。
1週1本が掟であったため、レンタルビデオ屋特有の、キツめな芳香剤の香りに包まれながら、どの巻で楽しもうかを毎週毎週、必死で選別していた。レッドキングの巻は……貸出中。ゴモラは……貸出中。メフィラス星人も……貸出中。人気怪獣が出る巻は競争率が高く、順番通りに観ることも叶わなかったが、幸い、ウルトラマンに連続ドラマ性はほぼ無い。「どこから観てもいいよ」とウルトラマンが言ってくれているようで、優しかった。そして、実際に映像で観るヒーローとしてのウルトラマンは、図鑑で見る写真や、子供の拙い空想とは比べ物にならないほど、格好よく、雄大で、包容力に満ち、素敵だった。
幼いなりに、ドラマの味も覚えた。
忘れられし砂の都にて、ウルトラマンが神として崇拝されていた『バラージの青い石』。
夢の結晶・ガヴァドンを倒させまいと、子供達が必死で嘆願する『恐怖の宇宙線』。
祖国に棄てられた宇宙飛行士が怪獣となり、復讐に来た『故郷は地球』。
ウルトラマンがいるのに人間が頑張る意味はあるのか?の命題に切り込む『小さな英雄』。
数々の名エピソードから、物語の余韻はめでたしめでたし一色ではなく、淡い中間色や、深い混合色もあるのだと知った。
とりわけ、最終話『さらばウルトラマン』は、6歳の私の心を、容赦なく絶望で塗りつぶした。
無敵のヒーロー・ウルトラマンがゼットンに破れ、M78星雲へと帰ってしまった喪失感をどうにもできず、ただただ泣いた。泣きまくった。泣くのに忙しくて塾に行くどころではなくなり、お休みした。「ウルトラマンが帰っちゃった……」とぐずぐず泣いたその日の出来事(注1)を、後年、たびたび母親が持ち出しイジってくるのは癪だったが、現実とフィクションの境界が曖昧なこの時期、本当に、実際に、現実に、ウルトラマンと「さらば」した体験は、私の一生の財産だ。
ボバリズムだなんだと、まず良い意味では用いられない「現実とフィクションの区別が付いていない」であるが、なぜなら、幼少期にのみ許された特権だからなのだな。
注1……大泣きした私はその翌週、新たに見始めた『ウルトラセブン』の、シックで、アダルティで、怪奇テイストの増した、『ウルトラマン』と全く異質の作りに心酔し、ケロッとセブン派へ鞍替えしていた。マン兄さんすまない……
小学校高学年に差し掛かると、「そろそろウルトラマンは卒業しなさい」との、親からの圧も強くなってくる。その頃の私は読書に目覚め、江戸川乱歩や赤川次郎、ミヒャエル・エンデ等を読んでおり、『高校教師』『古畑任三郎』『お金がない!』といったテレビドラマもよく観ていたが、これらのフィクションに比べても『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』は、何一つ劣っていなかった。こんな面白いものを何故卒業しなければいけないのか???と反発しながらすくすく育ち、まあ、時には特撮と疎遠になったりもしたが、やっぱり戻ってきて、今もウルトラマンが大好きだ。
つまるところ、私は、「遥か空の星が ひどく輝いて見えたから 僕は震えながら その光を追いかけた」のだ。おい米津玄師!いきなりしゃしゃってきた癖に、なんかウルトラマンへの理解が深くないか……?
涙腺、2分で決壊
さて、『シン・ウルトラマン』である。
鑑賞場所に選んだのは、地元の小ぶりな映画館。
父親によく、ゴジラVSシリーズや大長編ドラえもんを観に連れて行って貰った、思い出の映画館。待機時間に流れるは『ニュー・シネマ・パラダイス 愛のテーマ』。
出来過ぎだろこのシチュエーション!?シン・ウルトラマンと戦う前から、既にちょっと泣きそうだった。自分のする事を愛せ。子供の頃、映写室を愛したように。
映画が始まる。
ドゥン!カーッ!キヒャィィィャーッ!!ドゥン!
やるよな!絶対やるよなコレは!!ウルトラマンのオタクが「ウルトラマン作っていいよ」って言われたらそりゃ……やるだろ!!!
シ ン ・ ゴ ジ ラ
???????
デッデーン!!!
シ ン ・ ウ ル ト ラ マ ン 空想特撮映画
!?!?!?!?!?
デデデデ デ デデデ デデデデ デデデデ デデーン♪デデーン♪(M2)
巨大不明生物 ゴメス
そりゃ思ったよ、シン・ウルトラマンの前日譚として『シン・ゴジラ』を仄めかしてくれたら嬉しいな、と。だが、まさか、ゴジラの着ぐるみを流用してゴメスを仕立てたように、シン・ゴジラのCG流用でシン・ゴメスをやってくるなんて!バ、バカ!!!!
巨大不明生物第2号 マンモスフラワー
ジュランだ!!!『ガメラ2 レギオン襲来』の草体レギオンは思いっきり『マンモスフラワー』オマージュだったが、遂に樋口の作品に本物が出たァァァ!!!!
巨大不明生物第3号 ペギラ
ペギラ!!!!大規模カタストロフを起こせ、南極パートと東京パートでお話が作れ、空も飛べ、解りやすい弱点があるペギラ!!絶対映画映えする!!!!!!!庵野秀明、シン・ペギラを撮れ!!!
巨大不明生物第4号 ラルゲユウス
『鳥を見た』!!!!!ウルトラQで一番好きな回だ……夕陽眩いラストシーンを再現、しかもちゃんと、ラルゲユウスを倒さないでおいてくれてる……ありがとう……ありがとう……
巨大不明生物第5号 カイゲル
ゴーガ!怪獣図鑑とかにいつも載ってる夜のスチル写真風!!!でも何か名前違う!!
巨大不明生物第6号 パゴス
パゴス!!!!お前『ウルトラマントリガー エピソードZ』でも目立ってたな!?!?
『シン・ウルトラマン』を観に来たら、まさか、まさかの『ウルトラQ』怪獣達による大歓迎。
結婚式にサプライズゲストが現れた花嫁のように、私は、堪えきれず、泣き出した。
映画開始、たった2分の出来事である。
符丁のつるべ打ち
「ウルトラマンの前に、まずはウルトラQ、だろ?」と、総計2分程度の前日譚パートに、6体ものウルトラQ怪獣をバカバカ投入してくるこの映画。バカなのだ。『新世紀エヴァンゲリオン』を初めとする自作品にここぞとばかりウルトラネタを仕込んできた庵野秀明に、『平成ガメラ三部作』で卓抜した怪獣撮影センスを発揮し、日本特撮を牽引した樋口真嗣。最強のウルトラマン・バカ達がとうとうウルトラマンを手掛けたら、そりゃ、アクセルもベタ踏みになろう。
56年に渡り愛好・研究がなされてきた末、アレキサンドリア図書館の如き膨大なネタのアーカイブスとなった『ウルトラマン』から選出された蘊蓄が、御約束が、様式が、再演が、楽屋裏話が、没案のサルベージまでもが、112分のフィルムに間断なく練り込んである。
ウルトラマンの見せ方ひとつとっても、こうだ。
ウルトラマンは、最初、顔つきが少し違う。これは、1〜13話までは俗に「Aタイプ」と呼ばれる、やや不出来なマスクを使用していた経緯の再現。
微かに鳴る「ジリジリジリ……」というSEは、昭和ウルトラシリーズで敵宇宙人が現れた時によく鳴る、通称「宇宙人音」。この音とAタイプマスクの併用で、今はまだウルトラマンが正体不明の外星人である事を演出している。
ネロンガやガボラを沈黙させた後、ウルトラマンが不敵に笑みを浮かべている風なカットが挟まる。デザインを手掛けた芸術家・成田亨先生が、宮本武蔵の逸話から閃き、ウルトラマンの口角・アルカイックスマイルへ込めた「本当に強い人間はね、戦うときにかすかに笑うと思うんですよ」との想いを汲むアングルだ。
エネルギー消耗時に体色が緑になるのも、カラータイマー設置に反対した成田亨先生の代替案。
突然ウルトラマンが高速回転し、ガボラを蹴飛ばす珍妙な攻撃は「回ればなんとかなる」とファン間で親しまれている、伝統のアクションを応用したもの。
スペシウム光線の成分「スペシウム133」の133は、初代『ウルトラマン』の科学特捜隊メンバー・イデ隊員が発明した、スペシウム光線と同等の威力を持つ新型武器「マルス133」から。
上記に挙げたのも、ほんの一部だ。本作におけるウルトラマン描写は、頭頂から爪先に至るまで符丁だらけ、否、符丁がウルトラマンの形を成しているのか?と思う程である。
ウルトラマンだけではない。禍威獣や外星人も、符丁の塊だ。
ネロンガは当然、亡霊じみた半透明モードで進撃してくるし、機電による角部リレー発光もCGで完全再現。電撃を放射しては、敢え無くウルトラマンの胸板に弾かれる。
ガボラは「パゴスと99%類似の属性」「パゴスと同種」「パゴス事案の二の舞」と、妙に「パゴス」を強調した言及がなされるが、これは第9話『電光石火作戦』に、元々ガボラでなくパゴスが登場予定だった事の揶揄。更にパゴス、ネロンガ、ガボラの3体は共に東宝怪獣・バラゴンの着ぐるみを改造して作られた楽屋事情を逆手に取り、「アタッチメント換装式の生物兵器」と位置付ける、大胆な新解釈が行われた。
ザラブは第18話『遊星から来た兄弟』の冒頭でだけ着用していたハット&コートを普段から着こなし、彼が禍特対本部へ足を踏み入れた途端、待ってましたと歓迎するように電子機器はショートする。勿論、にせウルトラマンにもなって本作のヒロイン・浅見を掴みあげ、ウルトラマン怒りの手刀を喰らう。ウルトラマンもチョップした手を「痛ェ〜!」とばかりにプラプラさせる(注2)のを忘れない。
注2……ウルトラマンのスーツアクター・古谷敏氏が手刀をうっかり当ててしまい痛がってたのに、NGにならずそのまま使われてしまった場面。庵野秀明氏はこの物真似が凄く上手いとか。
メフィラスは浅見を巨大化させ、ウルトラマンとも互角の戦いを繰り広げ、「よそう……」の台詞と共に引きあげていく。
ゼットンはウルトラマンの攻撃を一切受け付けないどころか、かのベストセラー『空想科学読本』の有名なツッコミを真に受け、1兆度の火の玉で地球ごと吹き飛ばす恒星文明破壊兵器と化した。なんとゾフィーに至っては、55年越しに、幼年誌によるフカシ記事「ゾーフィ」が真実となり、宇宙恐竜ゼットンをあやつっておおあばれをする(大暴れまではしないが)。
宮内國郎氏による『ウルトラマン』劇中BGMも、至る場面で使用される。
幾度と無く自分でも口ずさみ、勇を鼓す際に心の中で再生してきた、名曲の数々。現場へ急行する禍特対に合わせ『科特隊のテーマ』が流れた時や、不埒な偽物を誅するため、本物のウルトラマンが現れるやいなや『遊星から来た兄弟 勝利 (M5)』が流れた時などは、つい、堪えきれずに泣いていた。
樋口真嗣監督はパンフレットにて、「オリジナルが好きな人に向けてサービスしましょうということは、実はほとんどやってないんです」とおっしゃっている。
正気か????ブレーキを踏んでこれなら、それはブレーキではないのでは。平成ガメラの頃は若手だった樋口監督もいいお歳だが、まだまだ56歳。ブレーキとアクセルを踏み違え、駐車場からコンビニエンスストアに突っ込むには早いですよ!
「虚構対現実」から「空想と浪漫」へ
シン・ウルトラマン、初代ウルトラマンの魅力である「SFオムニバス的な空気感」と「ほどよいゆるさ」が物凄く尊重されてた事に一番感激した。一つの事件の発端から解決までを息詰まるような緊張感で追う『シン・ゴジラ』みたいにやるとウルトラマンぽくなくなるよね、って懸念を完全にクリアしてて。
— でるた (@delta0401) 2022年5月13日
『シン・ウルトラマン』に最も拍手を送りたいのはココだ。
1966年の番組である『ウルトラマン』を2022年の映画とするに当たり、リアリティラインは相応に引き上げられているものの、原典が擁している牧歌的でおおらかな空気感を、本作はとても大事にしている。
禍特対は、冗談じみた提案やオーバーなリアクションも交え、リラックスした雰囲気すら漂わせながら、ネロンガに対処する。禍威獣被害も跡を引かない、カラッとしたものだ。
謎の巨人として人類の前に姿を現すウルトラマンでさえ、ガボラの放射能を中和した一件で、結構あっさり世間に受け入れられる。神永の正体がウルトラマンと知られようが、ニンジャ・マスターの如く雲隠れするので、政府に捕えられ人体実験みたいなハード展開もない。
政治ドラマ要素もシンプル。大事な決定をポンポン下す政府と、頭を抱える禍特対の関係はどこか滑稽だし、米国との軋轢もフレーバー程度で、主軸はあくまでも普遍的な人間ドラマ。外星人の庇護のもと繁栄を手にしようとする日本の危うさへ、日米安全保障条約の影を重ねてくるのは中々にアイロニカルではあったが。
ゆるい。『シン・ウルトラマン』は、程よくゆるい。「もし現実に巨大怪獣が出現したら、各省庁はどう動き、軍の出動までには如何なる過程があり、諸外国からはどのような政治的介入があるのか?」を徹底的に検証し、激流の如きダイアログと共に叩きつける『シン・ゴジラ』のような、極限までストイック&リアリスティックに徹した作風を期待して観に行くと、やや肩透かしを食らうだろう。
だが、『シン・ウルトラマン』は『ゴジラ』ではない。『ウルトラマン』だ。
太平洋戦争の傷痕を抉る、凄惨なモンスター・ディザスター・ムービー、『ゴジラ』。
架空のユートピア的日本で、アットホームな雰囲気のチームが怪獣退治に奔走する『ウルトラマン』。
両者の風味は全く異なる。『ウルトラマン』は元々、弛やかな空想科学特撮番組なのだ。
樋口真嗣監督は、映画パンフレットにて「過去に作られた、僕らが観て育った素晴らしいものを、どうすれば今の人達に同じような感覚で伝えられるのかを考えましたね」とコメントされていた。正直な所、『シン・ゴジラ』がマス層に大ヒットした実績がある以上、ゆるさは徹底して廃し、『シン・ゴジラ』的なつくりに走る方がヒットは見込めただろう。
しかし、それでは嘘をつくことになってしまう。
政治ディテールを深彫りし、災害シミュレーションとしてのリアルを追求した『シン・ゴジラ』は、確かに大傑作だった。私も何度も観賞した。かといって、『シン・ゴジラ』に倣うアップデートを、ウケがいいからとそのままウルトラマンに適用し、「これが僕達の観ていたウルトラマンです!」とお出しするのは、嘘になる。
そのような嘘を、『シン・ウルトラマン』は、樋口真嗣と庵野秀明は良しとしなかった。禍威獣がもう6体も出現し、その都度駆除してきた沿革を初めに見せ、既に世界は「空想」に覆われていると強調する。「現実」にはみだしてくる「虚構」を、右往左往しながら満身創痍で押し返す『シン・ゴジラ』ではないと、キッパリ断った。
息を呑む緊張感で映画全体を貫くより、エピソード毎にピリオドを打ち、ほどよく弛緩させる。リアルさや政治描写よりも、禍威獣の出自や、外星人とのコンタクト、地球人種の謎といった「浪漫」に重きを置く。それら『ウルトラマン』へ向けた誠実なチューニングが、私には何よりも嬉しかった。
ありがとう。樋口真嗣。庵野秀明。『シン・ウルトラマン』を『シン・ゴジラ』にせずにいてくれて。ありがとう。ありがとう。
冴えたリライト
1966年のテレビ番組『ウルトラマン』に由来する元ネタを大量に仕込み、空気感をキャッチした上で2時間の映画へと落とし込んでいる『シン・ウルトラマン』。
しかし、単なる『ウルトラマン』の再演にはあらず。温故と革新、再現と改変を天秤にかけた上で、現代の感性を加味した補足修正、組換えがなされている。このリライト具合が「俺達が『ウルトラマン』をやるならこうだ!!!」という熱気に満ち溢れており、妥当で、論理的で、至妙なのだ。
私感を交えつつ、エピソード毎の改変点を中心に解説してみる。
ネロンガ編 ウルトラマン第3話『科特隊出撃せよ』
ウルトラマンの初バトルといえばベムラーであったが、『シン・ウルトラマン』ではネロンガに変更された。
ネロンガは透明化、吸電、放電と派手で解りやすい特性を持つため、「禍特対の解析手腕」「禍威獣が生物兵器である可能性」「ウルトラマンの強さ」の3点をアピールできる相手として適任で、納得の変更。落雷によって透明時の存在感を出していたり、飛来するロケット弾を放電で迎撃する小粋な描写から、「ウルトラマンを魅力的に見せるためには、まず禍威獣が魅力的でなければならない」という気概が伝わってくる。地味に、変電所の可動ギミックも格好よくてお気に入り。
ガボラ編 ウルトラマン第9話『電光石火作戦』
昔のウルトラマンはガボラの吐く放射熱線をひょいひょい躱していたが、『シン』のウルトラマンは周囲への汚染を防ぐべく、身を呈して熱線を吸収する。この行動が切掛となり、未知の外星人ウルトラマンが、地球を守ってくれる慈愛の巨人として認知されていく。
大した話ではなかった『電光石火作戦』を、人類とウルトラマンのターニングポイントへ膨らませた発想力に脱帽。『大怪獣のあとしまつ』を彷彿とさせる台詞があるのも、当て付け返しのようで芸術点が高い(撮影時期的に偶然なんでしょうが)。
ザラブ編 ウルトラマン第18話『遊星から来た兄弟』
リアリティは相応に引き上げられているものの、概ねそのまま。
原典のプロットが、今でも十分に通用する証左だろう。
ハヤタが単にベーターカプセルを忘れているトホホ展開が「神永が浅見を信頼して預けた」事になっているのと、スペシウム光線が決定打にならないので八つ裂き光輪で倒す、バルタン星人二代目要素を混ぜたのが、特筆すべき改変か。
ザラブの声を担当する津田健次郎さんの、故・青野武さん(オリジナルのザラブ星人)に寄せた芝居が非常に達者なので、是非聴き比べてみて下さい。
メフィラス編 ウルトラマン第33話『禁じられた言葉』
原典が抽象性の高いエピソードである為、ザラブ編とは対象的に、大幅な改変が施された。
『シン』のメフィラスは浅見をベーターシステムのデモンストレーションに使い(一発ネタ、巨大フジ隊員をこう活かすか!)、技術供与が見返りの隷属的条約を日本政府に締結させる事で「地球を貴方にあげます」を表現する。『ウルトラマン』の少年は、地球を売り渡さなかった。『シン・ウルトラマン』の大人は、地球を売り渡した。
メフィラスが上位存在としての崇拝を要求するのも、名文句「私が欲しかったのは人間の心だったのだ」の、唸らされる再解釈。宗教観のおおらかな日本なら、ハロウィンやクリスマスがひとつ増える位に、何となくメフィラスを受け入れそうな気がしてくるのも、うまい。
巨大化してのバトル時、「ネゲントロピーを利用する私と違い、人間と融合情報を共有するせいでエネルギー効率の悪いウルトラマンは、このままじゃ負けるぞ?」という旨の挑発をしてくるが、これは長年言われてきた「ウルトラマンと互角なら、時間制限まで粘ればメフィラス星人の勝ちなんじゃ??」に対するSF的解釈である。
そして何といっても、名優・山本耕史さんが好(怪)演する、妖しさ満点の人間態。
「私の好きな言葉です」「私の苦手な言葉です」「割り勘でいいか?ウルトラマン」等の台詞が強烈な印象を刻む、本作随一の人気キャラクターであり、故・実相寺監督が得意とする異化効果をリスペクトした居酒屋での対話シーン(注3)も、何度も見返したくなる屈指の名場面だ。東京03のメフィラス星人と、山本耕史メフィラスで『シン・ウルトラ怪獣散歩』、やりませんか円谷さん?????
注3……カウンターの向こうにチラリと映る居酒屋の主人は、『孤狼の血』『凪待ち』『彼女がその名を知らない鳥たち』等の傑作で有名な映画監督・白石和彌。エンドロールのエキストラに名前があります。
ゼットン編 ウルトラマン第37話『小さな英雄』+第39話『さらばウルトラマン』
普通に考えると『シン・ウルトラマン』のクライマックスも第39話『さらばウルトラマン』ベースしか有り得ないのだが、ドラマの筋立ては第37話『小さな英雄』に軸足を置く。
『小さな英雄』とは、誰もが一度は必ず抱く「ウルトラマンいたら防衛チームいらねえじゃん!」との、素朴で、率直で、痛烈な疑問に、作品の登場人物(イデ隊員)が気付き、やる気を喪失してしまうエピソード。この視点を初代『ウルトラマン』時点で作り手側が有していた事に、今なお感嘆を禁じえない。
『シン・ウルトラマン』では禍特隊の物理学担当・滝くんが『小さな英雄』におけるイデ隊員を引き継ぐ。外星人の超技術を目の当たりにし、滝くんが自信を削がれていく様はネロンガ編から段階的に描写されており、ウルトラマンすらゼットンに負けた事で心折れてしまい、職場でストロングゼロを呑むにまでやさぐれてしまう。
無力感に打ちひしがれ、迫る破滅にも目を背け自暴自棄な滝くんが、ウルトラマンからの激励と信頼、そして親愛のこもったメッセージを受け取り、再起する姿は、演じる有岡大貴くんの熱演もあり、強く心打たれるシーケンス。元々『小さな英雄』と『さらばウルトラマン』は相補的であり、この2本を混ぜればもっと凄いエピソードになるのに!と昔から密かに「僕のかんがえたウルトラマン」構想へ組み込んでいた身としても、我が意を得たり、という感じである。
映画の最終盤、ウルトラマンとゾーフィの会話にて「ゼットンを倒した戦闘力に目を付け、外星人が続々と地球へやってくる」とあるが、コレは全49話の殆どが侵略宇宙人との戦いで占められる次番組、『ウルトラセブン』の匂わせ。
「ウルトラマンと別れるのは悲しい……嫌だ〜!」と心では思いつつ、「シン・ウルトラセブンめちゃくちゃ楽しみやんけ!!!」と心躍ってしまうパラドックス。まさしくこれこそ、ウルトラマンの最終回を観た当時の子供達の心境を、映画館で私達にも感じてもらう、最高の追体験ではないだろうか。
「物語の始まりは 微かな寂しさ」なのだ。
米津玄師!やっぱり俺よりもウルトラマンへの理解が深くないか……?
そして、友情
『シン』のウルトラマンは、人間が解らない。愛も知らない。
極限までスタンドアローンな種族である筈のウルトラマンが、子供を庇い殉職した禍特隊隊員・神永に、何故か、強く心惹かれるものがあった。どうしてこの生き物は、身を挺して他者を守るのだろう?この、か弱くも不可解な生き物のことを、もっと、もっと深く知りたい……
湧き上がる興味を抑えきれず、種の掟に背いてまで神永と融合を果たしたのが『シン』のウルトラマンだ。彼は快活なヒーローでも苦悩するヒーローでもなく、探求するヒーローなのである。
ウルトラマンは、学ぶ。机の上に分厚い本を積み上げては、高速でページを繰りながら学ぶ。人間・神永であった頃の比ではない学習能力を発揮し、膨大な人文科学を吸収していくウルトラマン。これならきっと上手くいくはず……!
しかし、浮く。めっちゃ浮く。浮きまくる。浮いてる。外星人まるだしの台詞を堂々と口にしては、浅見に怪訝な顔をされ、コーヒーを二人分持ってこない無頓着をなじられるウルトラマン。完全なる「個」の種族故に「和」や「群」の概念が欠如しているのは、知識じゃどうしようもないのだ……ガボラ対策にてんやわんやの中ひとりどこかへ消え、一件落着した頃にドヤ顔仁王立ちで皆の前に出てきた時はたまらず「身体を張って放射能を吸収していたのは、その神永さんなんですよ!!」と、助け舟を出してあげたくなり、いてもたってもいられなくなる。
そう、『シン』のウルトラマンは、「それ言っちゃダメ!やっちゃダメ!そこはこうでしょ!!!」と、気を揉みながら見守ってしまうのだ。
浅見が言う「バディ」の通りやってみると、ちゃんとザラブから私を助けてくれた。じゃあメフィラスの件は禍特対全体に打ち明けてみよう。より踏み込んだ「群」への頼り方を試行し、上達していくウルトラマン。無機質・無遠慮・無愛想な外星人に、少しずつ人間性をにじませていく斎藤工さんの演じ加減もあり、むしろバトルシーンよりも「ウルトラマン頑張れ!!」と応援してしまった程だ。素っ気ない棒切れのような物言いも、終盤では「為せば成る。成さねばならぬ」とメフィラスばりに格言を使ったり、ゼットン攻略作戦の概要を「コンマ2秒でぶっ飛ばせばいいんだな」とかいつまむなど、かなり人間味のあるボキャブラリーへ進歩する。(黙って置いといてやるのが気遣いだ。コーヒーみたいに)と、滝くんの机に超大事なUSBを黙って置いておくのも……いや、そこはちゃんと言おう!!!
子供の頃から、ずっと見上げていたウルトラマンへ、『シン』は見下ろし、見守るアングルを新たに付与する。
かつて怪獣と戦う勇姿へ送った、熱烈な視線とは違う。もっと静かな、慈しみを湛えたまなざし。
「何も解らなかった。」命の果てる間際、ウルトラマンは本音を吐露する。
解らない事も含めて人間は素晴らしい、もっと知りたくなった、とも。
だが、私は知っている。
酷薄な裁定者である筈の彼が、神永と同じ、他者のため命を差し出せる境地へまで至ったことを。
彼の探求の足跡が、我が身を顧みず無償で私達を守ってくれた、56年前の光の巨人と同じことを。
ここまで成し遂げ、辿り着いても尚、胸に灯る暖かさの名前が分からない彼。ゾーフィに代弁してもらい、ようやく「好き」を悟った、不器用なリピアの花。そんな彼が、私も好きだ。56年前の、光の巨人と同じくらいに。
醒める酩酊
映画としての問題点も『シン・ウルトラマン』にはそれなりにあった。映画館を出、熱狂から脳が冷却されてくると、ぽつぽつ気になってくる。
ゼットン編の力尽き加減。
演出も画もBGMも平坦で、映画のクライマックスに釣り合っていない。殊に、単調な光線の撃ち合いに終始するゼットン戦の出来が辛い。
世界会議が、VRヘッドセットを装着した滝くんの一人芝居で済まされるのも、腰が砕ける(セルフツッコミが入るが、それでいいというものではない)。諸外国との粘り強い交渉をテンポ良く見せ、最終決戦を盛り上げた『シン・ゴジラ』に比べ、スケール感に乏しく、非常にミニマムな印象を与えてしまっている。『シン・ウルトラマン』が敢えて『シン・ゴジラ』ぽくしていない意義は遥か前項で述べたが、ココは差別化の問題ではなく、ハッキリとした優劣だ。
ウルトラマンが人間を学ぶ過程が性急で、やや食い足りなさが残る。
神永と浅見には、言葉上だけではないバディも組み、二人で事件解決に当たるエピソードが欲しかったし、市井の人間と神永が関わる所も見たかった。それこそ『新世紀エヴァンゲリオン』が、個を圧殺する群の負側面や、知ろうとするが故の痛みも描いていたのを思うと、群>個の価値観が揺るがないのも、物足りない。鮨を押したような映画なので、入れる尺がどこにも無いのは解っているが……
疑似オムニバス構成と、ドラマの性急さが相俟って、「総集編映画」ぽさが否めない。
庵野秀明氏は「TVシリーズの総集編ぽくならないよう気を付けた」と述べられてはいるが、残念ながら、総集編ぽくなってしまっている。
内輪受け感。
初代『ウルトラマン』の空気を保全すべく、ヘンな部分も敢えてヘンなまま残してあるのはファンとして嬉しいが、「敢えて」とはつまり、忖度の要求だ。「ソレは原作がそうだったから」と、観るものに忖度を要求する描写が、本作には多い。回るウルトラマンや、ザラブにチョップして痛がるウルトラマンは、やっぱり知らない人が観たら、へンだろう。その手の描写が殆ど無く、何よりも、あまねく全日本人の共通体験・震災が根底にあった『シン・ゴジラ』と比べ、ウルトラマンの視聴経験がリテラシーとなる『シン・ウルトラマン』は、伝統的であっても、越境的であったとは言い難い。
浮かぶ。浮かんでくる。不満なところが。ぽつぽつ、ぽつぽつと、次々に。
だが、それがどうした。
『シン・ウルトラマン』がもたらす最高の酩酊の前では、多少の欠点など取るに足らない。
アレがある、アレがある、アレもあるし、アレもあって、あの曲が流れる、あの曲が流れる、あの曲も流れて、あの曲も流れる。その台詞はあの台詞の改変だ。この台詞はあの場面を補足している。ほぼ全てが、私には解る。
幼少期から現在に至るまで、長年『ウルトラマン』が大好きだった自分を全面肯定してくれる、最高にハイで、万能感に満ち、至福の映画体験だった。幼き日に『ウルトラマン』という聖痕を刻まれた私へもたらされる、福音だとすら思えた。この112分に浸りたいが為、初週で3回も観た。こんな映画は人生でも初めてだし、この先もそうはないだろう。
しかし、
しかし、私は本当に『シン・ウルトラマン』を観ていたのだろうか?
憧憬の中で
私は『シン・ウルトラマン』を観ていたのだろうか。
本当は『シン・ウルトラマン』を透過し、その先の、幼き日の思い出、『ウルトラマン』を観ているだけではないだろうか?
映画を観ていて最も心躍る瞬間が、コレもある!ソレもある!アレもやっている!といった「原典との照合作業」にあったのは、誤魔化しきれない。
不純な愛好だ。
私なんかよりも、ウルトラマンを全く知らない人や、『Z』や『トリガー』といったTVシリーズの延長で観に来た子供達の方が余程、『シン・ウルトラマン』を純粋に観ている。私が『シン・ウルトラマン』を好きなのは、そういう純粋な人達に、知識マウントを取らせてくれるからではないだろうか? 製作者の用意した内輪ネタが分かる"内輪"である事への、特権意識からではないだろうか?
「好き」が揺らぐ。好きなのだろうか。好きでいいのだろうか。
かつての『ウルトラマン』への耽溺は、未知に開かれた物だったが、『シン・ウルトラマン』への耽溺は、既知に閉じたものだ。
あと1度くらいは映画館に通うつもりだが、ここに来て、後ろめたさが出てくる。
狭間にいるからこそ見える事もあるが、狭間にいるから押し潰され、心が軋む。
遠き日の、別人の面影を追っているような私を、枯れゆくリピアの花は、好きでもいいと言ってくれるのだろうか?
君が望むなら それは強く答えてくれるのだ
今は全てに恐れるな
痛みを知る ただ一人であれ
出典:米津玄師『M八七』
米津玄師、あんた本当にウルトラマンのことを良く解ってるな……
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この曲が『シン・ウルトラマン』の主題歌で本当に良かった。
こちらは劇中楽曲。
映画館で売ってるデザインワークス。庵野秀明さんがサラッと凄い事を言っているインタビューも必見。
ムック本。本編内容に踏み込んだものとしては恐らく最速。
おもちゃで遊ぼう。
初代『ウルトラマン』のデザイナー・成田亨先生の著書。カラータイマーを巡る有名な逸話を初めとした、興味深い話が沢山載っていて面白いです。
初代『ウルトラマン』副読本としては決定版。「バルタン星人はセミ人間のスーツ改造」という昔から定番の蘊蓄が、実は関係者により証言が食い違っており、結局どうなのか未だ不確定なのもこの本で知って驚いた。
原点にして頂点。海外版の円盤ってお得ですね。
『シン・ウルトラマン』から連想した作品その1。SFホラー&バディムービーの名作で超面白いです。
『シン・ウルトラマン』から連想した作品その2。『ウルトラマン』のコズミックホラー翻案とも呼ぶべき1冊。小林泰三先生がシン・ウルトラマンを観ることなく他界されたのが、残念でなりません。
ウルトラマンだって負けたんだから、人間が頑張ってもしょうがないですよ……