蛇足とは。
「戦国策 斉策」 に見える話から。
中国の戦国時代、楚という国の大臣が、魏の国と戦って勝ち、余勢を駆って斉の国まで攻め込もうとしたときのこと。斉から使者がやってきて、こんな話をしました。
「主人からもらったお酒を賭けて、誰が最初に蛇の絵を描き上げるか、競争をした人たちがいました。いちばん先に絵を描き上げた人が、調子に乗って蛇に足を付け加えようとしたところ、それが終わらないうちに蛇を描き上げた人が、こう言いました。もともと蛇には足がないんだから、足なんか描けるもんか』。結局、最初に蛇を描き上げた人はお酒を飲ませてもらえなかったということです」。それを聞いて、魏を相手に勝利を収めたのだから、斉と戦うのは余分なことだとさとった楚の大臣は、そのまま兵を引き上げたのでした。
引用元 小学館 故事成語を知る辞典 編/円満字二郎
「蛇足」という故事成語の、詳細な発祥経緯だ。
足が描かれた蛇の、美醜にまつわるいざこざを漠然と想定していたら、『ウサギと亀』的な、先行者の慢心を諌めた故事であった。この話を敵国に聞かせ、戦争を止めるエピソードまで付随するのも初耳。学びになる。
そんな「蛇足」について、深く、深く、考えさせられた作品。
今回のお題はこちら。
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『仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル』
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再集結したオリジナルキャスト
『復活のコアメダル』最大の目玉要素。
なんと本作は、『仮面ライダーオーズ』放送当時のレギュラーキャストが、"ほぼ"全員出演し、当時の役を演じている。
ドクター真木役の神尾祐さんを欠くが、TV本編のラスボスとして倒されているので至極妥当。「全員集合」と宣言して差し支えないだろう。
2012年のあの日、あの時、人間の欲望を巡っての素晴らしい演目に集った一座が、再び『オーズ』の舞台に上がる。後続作品に登場し、現行主人公を苦境から救い、小規模なアフターストーリーをそっと紡ぐ「客演」の類は今までにもあったが、今回は名実共に、純然たる『仮面ライダーオーズ』。
これには『オーズ』が放送当時から大好きな私も(全ライダーで三番目位に好き)、平身低頭することしきり。キャストの皆様、ありがとうございます。
本当に、ありがとうございます。
火野映司の相棒である、傲岸不遜な鳥のグリード・アンクを演じる三浦涼介さん。
『復コア』はアンクが主役の話である為、彼の芝居は逐一観客の目に曝される事となるが、三浦さんは、台詞の抑揚から表情筋の使い方まで、少しもアンクを忘れていなかった。パーフェクトだった。
相手を値踏みするように高圧的な物言い。苛つきが顔に出て「あ!?」と恫喝気味に眉根を寄せる表情。しばし逡巡ののち、チッ!と舌打ちし相手の提案を呑む時の、憎々しい態度。そっぽを向きアイスを頬張る悪童じみた仕草。一挙手一投足の、指先から爪先に至るまで、全てがあの時のアンクで、アンクが再び、そこにいた。
いや、全てがあの時のままではない。本作のアンクは、生きて、生ききった最終回の、更に先にいるアンクだ。けして愛想が良くはないが、比奈ちゃんと照れ無く手を繋ぐようになった柔らかな一面も、しっかり覗かせてくれる。クライマックスでの落涙は正に、只のメダルの塊が、とうとう、涙まで流す境地へ辿り着いたに相応しい熱演であった。キャラクターだけでなく、演者の、10年分の重い重い感情が、確かに宿っていた涙だ。
人外の気配纏う、妖しいまでの美貌が全く萎れていないのも流石。今回もやはり、髪型セットに時間が掛かるのでキャストの誰より早く撮影所入りしていたり、汗をかくと神秘性が陰るので、カメラが回る直前までスタッフさんに冷やして貰ってたりしたのかな?と、当時の舞台裏での苦労話を思い出し、自然と口許も綻んでくる。
仮面ライダーオーズに変身する主人公・火野映司役の渡部秀さんも素晴らしかった。
今回の火野映司――正確には、出番の殆どが火野映司としてではないのだが――は、周囲を翻弄するトリックスターとして、TV本編とは全く異質の芝居を要求されるが、渡部さんは演じ切った。やや様子がおかしい映司に対し「あれ、渡部さん、久しぶりで演じ方忘れたかな??」と生じた疑念が、これは意図されたものだ!と確信に変わっていく、映画導入部のスリリングさたるや。渡部さんの抱く『オーズ』への想いを鑑みれば、『復コア』での立ち位置に対し、さぞ複雑な想いが胸中を渦巻いたであろう。だがそれでも、任された役は全力で演じる気迫が、『オーズ』後10年に渡る役者としての研鑽が、スクリーンから立ち上ってくるような芝居だった。
映司とアンク、二人を取りまく人々もまた、あの頃のままで、懐かしかった。
高田里穂さん演じる、ヒロインの比奈ちゃん。ずっと抑えていた胸中をアンクに打ち明ける場面での、夜の闇に消え入りそうな儚さは、ああ『オーズ』の比奈ちゃんだなあ……としみじみ。
豪放磊落なオトナの2号ライダー・バースこと伊達さん役の岩永洋昭さん。相変わらずの精力的な容貌!バース自体の強さは然程でもない筈なのに、後方にどっしり構えててくれるとこの上なく頼りになる、あの雰囲気は健在。師弟コンビを組む、君嶋麻耶さん演じる後藤さんはなんと妻子持ちに(本映画の前日譚『バースX誕生秘話』参照)!10年の月日が流れると、人は色々あるものだ。
知世子さんは荒廃した世界でも、仮設クスクシエを開き皆に食べ物を振る舞っているし、里中くんは相変わらず、やる気があるのかないのか解らない秘書業務を続けていた。
そして、そしてオーズといえばやはりこのお方!
ライダーにも怪人にもあらずして際立った存在感を放つ、全ての元凶なのに悪人ではない厄介な男!悪意ゼロで、悪気ゼロだが、反省もゼロ、0がみっつ並んで正にMr.オーズ!宇梶剛士さん演じる鴻上会長!!!今回『復コア』でもまた、欲望の飽くなき求道者として、トンでもない事をやっている。
「強欲」の名を冠する怪人・グリードの4人組も、当然ながらオリジナルキャスト。粗暴で勢いはあっても頭が回らない上、所持メダルの三枚コンボが強力なので、オーズの戦力を増強するカモにぴったりなウヴァさんは今回も健在。愉快なメダル1枚姿も見せてくれる。尺が窮屈な映画のため、他の三人にさしたる活躍がないのは残念だったが、古代オーズへ真っ先に拝謁してみせるカザリは「こいつはこういう事をする!面従腹背の構え!」とカザリファンの私としても解釈一致だ。妖艶なメズール&呑気なガメル共々、人間態をまた観られたのは嬉しい。
オーズが、大好きな『仮面ライダーオーズ』が帰ってきた。
……と、屈託無く悦べない面が本作には大いにあり、後段にてブチまけていくのだが、10年ぶりの『オーズ』に再集結したキャスト陣の芝居を堪能出来た点では、間違いなく、私にとって、得だった。
オーズらしさとは
さて、前章にて述べたように、『復活のコアメダル』には既に絶大なバリューが発生している。この点だけ抜き出し、大満足の記事に仕立てても構わないか、と何度も思った。むしろそうしたかった。
だが、やはり納得がいかない。
承服出来ない。首肯しかねる。
これが、こんなものが、「いつかの明日」でたまるか、とすら思う。
重ねて言うがキャストの芝居には大満足だ。問題は、映画のストーリーだ。
火野映司が、古代オーズの攻撃から少女を庇って致命傷を受け、今度は手が届いた事に満足し、息を引き取る。予告で元気そうにしている火野映司は、鴻上ファウンデーションが造り出した人工グリード・ゴーダが憑依して動かしていた、というのが真相だ。
私には、この末路が妥当だとは全く思えなかった。TV本編で是とされる価値観や、辿り着いた答えを踏まえた上での10years afterとして、『復コア』が「仮面ライダーオーズらしい」とは、今も尚、思えず、怨念を込めて筆を執り、論陣を張っている。
『復コア』を観賞した後、そのショックをtwitterにて吐露すると、
「映司らしいと思えて納得できた」
「映司なら必ずそうしていた筈」というリプライが、それなりの数寄せられた。同じ旨の意見も、ネット上でまあまあ散見される。
果たしてそうだろうか?
その死は、本当に映司らしいだろうか??
では仮に、居合わせたのが火野映司ではなく、五代雄介であったらどうか?
身を投げ出して女の子を庇う筈だ。津上翔一だって、そうだ。葛葉紘汰であれ、泊進之介であれ、神山飛羽真や五十嵐一輝だったとしても、仮面ライダーなら、いやヒーローなら、必ず女の子を庇っている筈だ。
その上で、「死ぬ」「死なない」の差に、ヒーローの個性や作品のカラー、即ち「らしさ」が顕れてくる、そういうものではないだろうか。
『カブト』の天道総司なら、少女を庇って死んだように見え、後から「おばあちゃんは言っていた……」の名言高らかに現れる方が断然、らしい。『W』の左翔太郎なら、少女を庇って凶弾に倒れ、遺された少女が探偵を生業とする決意をして、ハードボイルドが受け継がれていくというのも、らしい、といった具合だ(翔ちゃんなら死んでいいという訳では全く無い。念の為)。
実際に、少女を庇って命を落とした主人公がいる。TV本編の『オーズ』と同じく、小林靖子さんがメインライターを務めた『仮面ライダー龍騎』の城戸真司だ。
真司の死は、悲しくも、哀しくも、妥当だった。「人とライダーの分け隔てなく、命を落とす者を見過ごせない」信念に基づく行動は、何度も揺さぶりを掛けられながら真司がたどり着く、いや、戻ってきたとも言える、彼の出発点にして到達点だ。大いなる迂回だったが、真司の1年に渡る歩みを無駄にした訳では、全く無い。
『龍騎』自体も、例え己に破滅をもたらそうが、本人が望むのならどんな願いも叶えられるべきと、中立なまなざしを維持していた作品だ。何より『龍騎』は苛烈なバトルロワイヤル。誰がいつ命を落としても、不思議ではない空気があった。TV、SP、劇場版と、各ループ毎に真司、蓮、優衣のうち誰かが必ず死んでしまう"原則"すらある。番組終盤のシナリオ会議でも「真司は、死ぬでしょう」と、自然に決まったそうだ。(『証言!仮面ライダー 平成』参照)。
『龍騎』の主人公・城戸真司の死は、「主人公の到達点」「作品が掲げる価値観」「番組としてのカラー」、いずれの点でも申し分ない、完璧なる死だったのだ。
話を『オーズ』に戻そう。では『復コア』にて描かれた、火野映司の死はどうだったであろうか。
自己犠牲を肯定していないか
まず、「少女を庇って映司が命を落とした」について。
我が身を顧みず他人を助けようとする人間の末路としては変ではない。
だがそれは『オーズ』途中までの映司ならば、だ。彼の自己犠牲精神は、歪なメンタリティとして仲間から諫められてきた。
伊達「前から危なっかしいと思っていたが、原因はコレだ。他人を助けようとする癖に、自分の命は無視してる」
比奈「映司くん…いつも誰かの為に手を伸ばして……お兄ちゃんにも、私にも。じゃあ、映司君には誰が……??」
後藤「火野、お前の方がグリード化が進んでるんだぞ。比奈ちゃんが言った通り、どうして自分を守ろうとしない」
自身のグリード化やアンクの消滅を経て、ようやく「他人を救いたい欲をしっかり自分にも振り向けよう、一人で抱え込まず仲間の手を借りよう」と考えを改めた映司。
そんな彼の到達点を、どうして「女の子を庇って命を落とす」なんて所に置いてしまえるんですか?????
目の前で泣いている黒人の女の子に、かつて救えなかった内戦地帯の少女を重ねてしまい、反射的に身体が動いてしまったような演出が『復コア』ではなされていた。が、それは先ほど台詞を引用した32話でも同じ。プテラヤミーの襲撃から逃げ遅れた少女を視認するやいなや、映司の脳裏に内戦地帯の少女がフラッシュバックする、まるで同じ場面がある。「『復コア』の黒人少女は映司のトラウマを喚起する唯一無二の存在であり、本編で得た答えを反故にしてでも救ったのは妥当」との解釈は、無理だ。
確かに、本作には不参加となる『オーズ』のメイン脚本家・小林靖子さんも、当初は映司を「死ぬだろうな」「映司の幸せは死ぬことかも」と想定していた(仮面ライダーオーズ / OOO 公式読本 ~OOO INFINITY~ にて)。
しかし、同著同頁には「震災もあったし、ちょっと考えが変わって」「神様にするつもりだった映司を地上に落としたんです。人間に戻したほうがいいだろうなって」と、思い直した旨も語られている。
軌道変更を受けての映司生存がストーリー上不自然であったならば、『復コア』にて与え直された、自己犠牲の末の死も納得がいく。
だが、そうでは無かった筈だ。紫のメダルと極限までせめぎあった末、映司は生へと向かう事で番組のテーマが収束するよう、巧妙に組み直された脚本だった。「歴代でも屈指の、綺麗に纏った最終回」と10年に渡り高評価されてきたのが、何よりの証拠だろう。
『復コア』の当該場面で、映司ならばおのずと、少女を庇う。それは、前述した通り、ライダーなら、ヒーローならば当然だ。
だが、本編で辿り着いた到達点から退行する行為が求められ、そうせざるを得ないような状況を「いつかの明日へ手が届く」と銘打った作品でセッティングし、映司と、『オーズ』の10周年を観に来たファンの心を追い込む事自体が、そもそもおかしいのではないだろうか。
ちっぽけな欲望に満足していないか
次に、映司が「少女を助けて、満足して死んだ」点。
映司「どんな場所にも、どんな人にも絶対に届く俺の手、力、それが俺は欲しい!」
引用元 仮面ライダーオーズ 第47話「赤いヒビと満足と映司の器」
全ての人間を救える力を欲してアンクと契約し、ユニコーンヤミーに暴かれた夢のヴィジョンも地球大。父親との確執から「人が人を助けていいのは、自分の手が直接届く所まで」との諦観を抱き、枯れていたが、誰よりも欲深いのが映司の本質だった。
そんな映司が10年後、手が直接届く所にいた1人の少女を助け、満足して死ぬのは、みみっちくないか????
本作『復活のコアメダル』は、「代償」「一得一失」「等価交換」といった原則に重きを置いているように見受けられる。
オーズは、メダルを払わないとバイクにすら乗れないライダーだ。アンクや伊達さんや鴻上会長とも純粋なパートナーシップではなく、ギブ&テイクの関係だ。紫のメダルは映司に凄まじい戦闘力をもたらすが、身体をグリードへ変異させる。兄・信吾に戻ってきて欲しい比奈と、世界を味わう為に信吾の体が要るアンク。二人の願いも、同時に達成し得ないものだった。確かに、『オーズ』は、欲望に付帯する代償を描いている。
だが『オーズ』は、代償の発生を現実として描く一方、唯々諾々と受け入れるのを、決して良しとはしていない。
AもBも両方手に入れたい欲望を上手くコントロールし、意気込みや活力、夢への原動力に高めていけと説いてきた作品だったはずだ。
映司「言ったよな…?家族だけは戻れるって!彼女達はみんな、一緒に居て助けあった家族だ!」
映司「綺麗事じゃない!これは欲望を満たす為の質問だろ!俺の欲望はこれくらいじゃなきゃ満たされない!」
引用元 劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル
映司が欲望の大きさとしたたかさを存分に発揮し、敵の提示する二者一択を爽快に蹴っ飛ばしてみせる場面だ。
素晴らしい!!!これだ!!!これこそがオーズだよ里中くん!!!!!!!!
知世子「うーん、正しいのかも知れないけど、でも、そんなのつまんない。もっと欲張っていいじゃない。映司君も、アンクちゃんも、お兄さんもって。ちゃんと欲張れるのは比奈ちゃんだけよ」
引用元 仮面ライダーオーズ 第47話「赤いヒビと満足と映司の器」
『オーズ』のポリシー及び総括として正鵠を射ており、私の大好きな台詞だ。
残念ながらこちらは理想論に終わる。でも、だからこそ10年後の「いつかの明日」で、映司には、少女も、アンクも、自身の命も、全てを掴み取って欲しかった。持ち前のしたたかさも発揮できず、小さく畳みこまれた欲望に殉じて死ぬ映司など、見たくはなかった。
「AかBかの選択で両方取れるなんてご都合主義。現実はシビア」と『復コア』は言いたいのだろう。1話で用いられた「楽して助かる命が無いのは、どこも一緒だな!」の台詞をピックしている辺りからも明白だ。
だが、それは的外れであると声を大にして言いたい。両取りをダイナミックな逆転劇として物語に組み込み、目指すべき未来として示してみせたのが『仮面ライダーオーズ』ではなかったか。『オーズ』の両取りは、安易なご都合主義などでは決してない。テーマの正当なる到達にして、飛躍だ。
「最終回を反転させ、映司が死にアンクが生きれば泣けるだろう」程度の、小手先のお涙頂戴へ導く為、残酷な面だけを拡大解釈した挙げ句、『オーズ』本編が描いてきた一切合財を無視して映司を死なせる方が、遥かにご都合主義で幼稚だと私は思う。
記念碑というより墓碑ではないか
必死で生きている人達の肩の力を抜いてあげ、明日への足取りを軽くしてくれる。そんなヒーローであった仮面ライダーオーズ・火野映司は死んだ。彼の生き方を象徴する明日のパンツは、はためく弔旗となり、希望溢れるOP曲『Anything Goes!』も、ここにいない者を偲んで唄われる歌となってしまった。
仮面ライダーオーズって、仮面ライダーオーズって、こんな暗いだけの番組だったか?????
オーズって放送中に世の中が大変な事になっちゃったから、当初の展開をやや曲げて明るい方向に修正した経緯がある番組だったじゃないですか?そして10周年となった今もまた、奇しくも暗い陰射す世情ですし、あの頃みたいにもう一度、観てくれた人を明るくしようって路線では駄目だったんですかね???
— でるた (@delta0401) 2022年3月13日
アンクが憑依して一心同体となり、映司は命を繋ぐ。
タジャドルエタニティが舞い降りた時、『復コア』はここに軟着陸すると踏んでいた。
一人で抱え込まずアンクの手を取れば自己犠牲の回避となり、生への足掻きは映司の欲深さ・したたかさとも合致する。希望があり、ビターでもある。あとは一件落着時の陽気なBGMを流し、「おい映司!!アイス食う時は俺に代われって言ったろ!!」などと漫才させておけばほら、いつもの『オーズ』だ。土壇場での救済を信じ、すがるようにスクリーンへ目を凝らした。
が、映司がアンクを押し退け、そのまま息を引き取ってしまった現実は変わらず、ただ『復コア』は幕を引く。
エンドロール後に残されたのは、レイトショーなのに座席をぎっちり埋めていた熱心な『オーズ』のファン達と共有する、取り返しのつかない物が壊れていく空気だけだった(これはこれで、得難い体験だが)。
もう一度言う。オーズってこんな番組だったか????
TVも、冬映画も、夏映画も、MEGA MAXや平成ジェネレーションFINALでさえ、多少の苦味はあっても、視聴後の感情収支は必ず上向きにしてくれるヒーローだったはずなのだが…
中庸の逸失
映司とアンクの凹凸バディが起こす化学反応。欲望の功罪を取り扱ったエピソード群。楽しくも熾烈なメダル争奪戦……『仮面ライダーオーズ』が描ききったものは沢山あるが、私は「中庸の実践」こそに、『オーズ』最大の美徳があると思っている。
中庸。
過不足がなく調和がとれていること。片寄らず中正なさま。
人間の幸福原理・倫理的美徳の中心として、東洋思想や西洋哲学において古くから重んじられている概念だ。儒教の始祖である孔子や、ギリシャの哲学者アリストテレスが「中庸」こそヒトの理想的な状態である、と説いた。
具体例を挙げよう。アリストテレスは著書『ニコマコス倫理学』において、「過剰」と「不足」から「悪徳」が生まれ、「その中庸(メソテース)」から「徳(アレテー)」が生じてくると定義した。
「勇気」も過剰であれば「無謀」となるし、不足すれば「臆病」となる。「快び」も過剰なら「放埒」、不足なら「無気力」、といった具合だ。
これ、物凄く『仮面ライダーオーズ』じゃないですか???
美味しい物を食べたい欲求が肥大したり、正義が暴走して私刑に走ったり、恩返しにとお金を届けまくった相手が堕落したり、映司の親友になりたくて周囲の人間を排除しに掛かったり……と、『オーズ』は欲望に纏わるゲストエピソードを通して、「過剰」より生じる悪徳を常に諌めてきた。他方で、欲望は人を進化させるエネルギーとも位置付け、自己を顧みなさすぎる映司や、世界を無に還そうとする真木博士の「不足」もまた、悪徳とした。鴻上会長や伊達さんが好人物として描かれるのは(二人とも死にそうで死なないのも)、強欲だが他者への施しも豪快で、彼らが中庸を達成・実践しているからに他ならない。後藤さんが一皮剥けたのも、真面目一辺倒をやめることで中庸を得たからだ。
そして、番組の到達点となる最終回。
グリードに近づき、欲を思い出し、大量のセルメダルを吸収する映司。
人間に近づき、欲を忘れ、コアメダルを奪われるアンク。
「不足」と「過剰」の両極から少しずつ動いてきた二人の天秤。無欲の青年・映司が、我欲の怪物・アンクからの、魂を燃やした最大の献身を受けとることで、ついに、同時に、均衡となり、「中庸」が達成される。
映司とアンクの、ギブ&テイクから生まれた真の絆は勿論美しいのだが、更にその一段階層上にある「達成された中庸」こそ、『オーズ』が成し遂げた、最も美しいものだったと、今でも思っている。勿論ここで挙げた「中庸」の定義などほんの触りで、深入りすると難解な問答が待ち構えているのだが、深遠になりがちな哲学を、堅苦しくなく、子供にも分かりやすいエンターテインメントとして『オーズ』は伝えていたのだ。
では、これを「映司が命を燃やし、アンクが受けとる」と反転させればどうなるだろう。
二人が両極からお互いを引っ張りあい、傾いた天秤を均衡と成す営みを、逆にしてセルフオマージュすれば、当然、均衡が崩れ、中庸は失われる。そこに、私は何の美しさも見出だすことはできない。
欲望のあとさき
『復活のコアメダル』は、はっきり言って蛇足だ。
恐らく本作は、映司が死ぬ結末ありきで作られたのだろう。そのせいで本編の主義主張と矛盾が生じ(映司がタカメダルに宿るロジックや、増えているオーズドライバー等、設定面でも怪しい)、逆張りのような後日談に仕上がってしまった。蛇足も蛇足。オーズ風に言うとへビレッグ。
メイン脚本家の小林靖子さんは「続編を書くのが苦手」と公言されている通り、不参加であるが、当時『オーズ』を明るい結末にする決定をした武部プロデューサー、『将軍と21のコアメダル』の内容を最終2話にフィードバックした田崎監督、TV本編で理解度の高いエピソードを多数輩出した毛利さんの参加で、一定の安心感はあった『復コア』が、蛇の足となってしまったのは残念だ。
だからといって、私は『仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル』を「やらなければよかった」とは思っていない。
最初に述べた通り、オリジナルキャストの再集結が果たされた時点で、『復コア』には絶大なバリューが発生している。
映司の体を好き勝手使っている新キャラのゴーダも、アンクがかつて泉兄妹に行った仕打ちの「業」を突き付けてくる存在で、刺激的だった。映司の死は許せないがゴーダは好きなパラドックス。いつか折を見て、単独記事にでもして吐き出そうと思う。
何よりも、TVシリーズ全48話や『将軍と21のコアメダル』『MOVIE大戦 MEGA MAX』を観返し(全部観ました。疲れた……)、『オーズ』についていま一度、じっくり向き合い、考える契機となった事にも感謝したい。
オーズ、やっぱり物凄い傑作ライダーなんですよ。
映司とアンク。互いの領域を張り合うことと、利害の一致に留まらない情の芽生えが、破綻なく内包出来ていたこの名バディを、もっと、もっと、もっと、いつまでも観ていたかった。
終わった物語の続きを欲する。
『復活のコアメダル』は、そんな欲望から生まれた怪物(ヤミー)だったのかもしれない。
参考資料
まずは本編。
Amazon.co.jp: 劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダルを観る | Prime Videohttps://amzn.to/3IZqawg
夏の劇場版。色モノ映画と侮るなかれ。
『復コア』に足りない物が取り揃っていて、これぞ真のオーズ。
『復コア』脚本も手掛けた毛利さんによる小説版。『復コア』の見方が変わったりはしませんが、そつなく面白い。
『オーズ』ファン必携の一冊。プレ値なのが痛い。
『オーズ』だけの本ではありませんが、この本でしか見ない裏話が多いので重宝します。
故事成語の由来引用に使用。読む辞書として面白いのがグッド。オススメ。
「中庸」を柱とするアリストテレス哲学について分かり易く纏めた参考書。ウソです。難しいです。勉強中。